L5D notes

肩身の狭い監視社会のネットで、匿名で書きたいことを書く場所

JOKERは底の浅い映画だが上手く世相を掴んだ

話題になってるらしいJOKER(ジョーカー)を観てきた。

僕は映画を観に行く際、絶対に前情報は入れない。映画のCMも極力観ない。情報が出来るだけ少ないほうが、意外性を味わえるからだ。

結論から言うと、この映画で感動するものはなかった。強いていうならば、僕が映画に求めている「展開の意外性や非日常のワクワク感」は感じなかった。

社会の底辺の貧困者が、何とか幸せをつかもうと、アメリカンドリームを掴もうと藻掻く。それでも社会は(この映画がウケた理由を見るならば「現代社会は」と書くべきなのだろう)、大衆は(そして「神は」か?)無残にも彼を叩き潰す。誰にも救われなかった挙げ句、奈落のどん底に突き落とされた人間は、社会に牙を剥く。当たり前じゃないか、当たり前すぎる。

21世紀も20年が過ぎ、ネットが普及したが、人々が思い描いたようなバラ色の未来は訪れなかった。格差は急速に進み、勝者と敗者が浮き彫りになった。ネットは人を幸せにするとは限らなかった。ネットは思想を広く世界で繋げたが、同時に人のエゴを剥き出しにし、人々を分断した。そして分断もおそらく勝者の手によるものなのだ。

JOKERは、現代の世相と、俳優の素晴らしい演技、演出(特にあの、体制の象徴であるパトカーを壇上として祭り上げられるジョーカーを囲む社会の落伍者たちの絵は素晴らしい)、これで成り立っている作品だと感じた。

これを観て、社会の世相や問題が分かった、社会の底辺の生活が分かったなどと言っているのは、底が浅いとしかいえない。本質を見ずに分かったような気になっているだけだ。そんな嘘っぱちの偽善で片付けられるほど、本当の貧困者たちの生活は生易しいものではない。

そんな欺瞞だらけの社会になったからこそ、今の世相があるのかもしれない。

これは"ガス抜き"の映画だ。世界の勝者側に立っている者たちは言う。どうだ、お前達のクソな人生だが、勝者の代表者たる司会者マレーの頭を銃でブチ抜き、満足しただろう? この映画に多くの共感が集まるのであれば、それだけ今の世相が腐っているということだ。

だがそんな華々しい逆転劇も、最後の最後で主人公アーサーの妄想だったことが判明する。映画の展開としては目新しいものではないが、スッキリした視聴者は愕然とするかもしれない。社会の勝者は、またも語りかける。どうだ、結局は行動に移すことはなく、お前達はただ妄想に浸っているだけなのだと。

おそらく、どの国で生まれたか、どう育ったかによって、この映画に対する評価は異なる。今まで「見てきた」ものによってしか人は評価しえないからだ。


どうやら、このJOKERは、クリストファー・ノーラン版のジョーカー映画である「ダークナイト」とは繋がりがない。

バットマンは登場しない。バットマンと関連する箇所といえば、街がゴッサム・シティであり、アーカム精神病院があり、バットマンの両親であるウェイン夫妻が登場し、彼らは貧民に○され、幼き日のブルース・ウェインが取り残される。それだけだ。

この演出のみであるのは評価できるが(バットマン要素が少ないからこそ、ジョーカー本人に視点を集中できる)、この題材であればバットマン要素は必要がない。

それでも、この映画は誰かに語りたくなる映画であるかもしれない。そこは認めたいと思う。映画は思想の共有装置だ。そしてネットも。それを使って僕もこれを書いている。皮肉なものだ。勝者たちのツールと伝達手段を使って、これを書いているわけだ。


余談になる。

ジョーカーは、今まで沢山の映画に登場し、様々な人が演じてきた。バットマンの原作はアメコミだが、ジョーカーにスポットを当て悲劇的な彼を描いた作品が存在する。それが1988年に発刊されたバットマン:キリング・ジョークだ。興味がある人は読んでみたらいいと思う。


僕が言えることは、

こんな安っぽい映画に心を打たれたと言うのなら、

隣人に、日々顔を合わせる「あなたの」隣人に、もっと優しくしろ ということだ。